傷藤進士、呈東閤諸執事 藤進士を傷み、東閤の諸執事に呈す
我等曾為白首期 我等は曾て白首の期を為す
何因一夕苦相思 何に因りてか 一夕 苦だ相思はん
披書未巻同居処 書を披きて巻かず 居を同じくせし処
捻薬空帰已葬時 薬を捻みて空しく帰る 已に葬りし時
不校秋声喪父哭 秋の声に父を喪ひて哭せしに校べずとも
猶勝暁涙夢児悲 猶 勝る 暁の涙に児を夢みて悲しぶには
〈余、先皆所有。 〈余、先に皆有りし所なり。
今、而喩之。〉 今、而うして喩ふ。〉
此生永断倶言笑 此の生 永く断つ 倶に言笑することを
且泣将吟事母詩 且つ泣きて吟ぜんとす 母に事ふる詩を
〈東閤孝経竟宴、 〈東閤の孝経の竟宴にて、
進士事母之詩。 進士が母に事ふるの詩あり。
故云。〉 故に云ふ。〉
元慶8(884)年、道真40歳の時、一人の文章生が死亡しました。彼は関白太政大臣藤原基経に恩顧を受けたとはいえ、菅根(式家)同様、藤原氏でも傍流の人物かと思われますが、志半ばにして倒れた悲運に対して感慨を禁じ得なかったようで、関係者に書き送ったのがこの詩です。
都良香が元慶3(879)年2月に亡くなってから、道真の請願により(『菅家文草』09:597「文章博士一員の闕を補せられ、共に雑務を済はんことを請ふの状」)この年の5月にようやく右大弁橘広相が文章博士を兼任し、欠員状態は解消しました。それまで丸5年もの間道真は一人で文章博士の地位にあったので、指導教官として藤進士に接していたことと思われます。さらに、この年の2月に光孝天皇が即位するにあたり、道真は典儀の役を務めましたが、終了後に所感を送ったのも同じ人物であったようです(02:127「典儀、礼畢りて、藤進士に簡す」)。
文才に優れた彼とは、生涯付き合うことになるとばかり道真は思っていました。ところが、突然訃報が届き、事態が飲み込めぬまま葬式が終わってみると、彼の机の上には書物が開かれたままになっています。学生のまま生涯を終えた彼の存在は、父親よりは軽いものの、息子よりは重いように思われました。
父是善が69歳で亡くなったのは4年前の8月30日。まさに仲秋のことでした。それに対し、息子阿満が7歳で夭折したのは昨年のこと。その死に臨んで道真が追悼する詩を詠んだのは、「菅外史」(『菅家文草』01:047)・「安才子」(01:072「安才子を傷む」)・「巨三郎(巨勢親王?)」(02:086)・「菅侍医」(02:096)・文章博士某氏(04:246)・島田忠臣(05:347「田詩伯を哭す」)・良臣(02:093)兄弟・藤原滋実(『菅家後集』486「奥州藤使君を哭す」)・本康親王(496「吏部王を哭し奉る」)・小野美材(502「野大夫を傷む」)と他にも大勢の人物を数えることができますが、「阿満を夢む」(『菅家文草』02:117)は十四韻もの七言排律詩(詩本体のみで196字)であり、比較的長いものに属します。夏になっても夢に見るのが悩みの種だと嘆いているので(02:122「夏日偶興」)、阿満にはよほど将来を期待していたようですが、それでも藤進士の死よりは軽い、と言い切ります。それだけ彼は優秀な生徒だったのでしょう。
遺作となったのは先だって東閤で行われた『孝経』竟宴でのものでした。『孝経』は儒教のテキストの一つ。孔安国(古文孝経)や鄭玄が注をつけたものもありますが、政界の第一人者たる藤原基経の邸(おそらく堀河院)という場所を考慮すると、玄宗皇帝の手による『御注孝経』が用いられたと想像できます。これが当時最も公的なものだったからです。
その講義が終了し、竟宴(打ち上げ)が開かれました。テキストの一節が詩題として各自に割り当てられ、道真も七言律詩(02:146)を賦しました。藤進士には母に仕えるという主題が与えられたのですが、いざ取り出してみて、孝養を尽くし切れないまま果てた彼の遺作を口ずさむと、やり切れない思いにかられるのでした。
ところで、『孝経』竟宴詩は02:146、この詩は02:140と、作品番号が逆転していますが、これは詩と詩序は年次別に配列することを原則とする『菅家文草』に錯綜があることを示すものです。『菅家後集』674「家集を献ずる状」に述べるように、讃岐に赴任する間に自身の原稿が雨漏りで破損し、人から控えを入手して『菅家文草』編集の材料とした経緯があり、このような混乱は十分起こりうるものなのです。
文章生藤原君(の死)を悼み、東閤の事務官諸氏に差し上げる
私達は 昔 白髪になるまでの友情を誓った
(それなのに)どうして 今宵は ひどく彼のことを想うのだろうか
書籍は開いたまま巻かれることもない (彼と)一緒に過ごした場所で
薬を手になす術もなく帰った すでに(彼を)葬った時に
秋に父を亡くして 慟哭したこととは比べようがないが
それでも 明け方に死んだ子を夢に見て泣いたことよりは辛い
〈(これらは)私が、先立って経験したことである。
今こうして(彼の死に)例えた。〉
今生では 一緒に談笑する機会もなくなってしまった
泣きながら吟じようと思う 母に仕える詩を
〈東閤での孝経の竟宴で、
彼は母に仕える(ことを主題にした)詩を詠んだ。
そこでこう言うのである。〉
http://michiza.net/jcp/jcpkb140.shtml