怨霊で道真像をイメージされると困るので、生前の道真(またはその関係者)が出てこない本に関しては、基本的に紹介しません。しかしこの作品は、安倍晴明と源博雅が主役なのに第7巻の表紙が道真という、なかなかあなどれない漫画です。とうとう「オヤジ」という隠語まで生んでしまいました。それにしても、ツンツンに逆立った髪を見るたび、ハードムースで押さえたい衝動に駆られるのは筆者だけでしょうか(笑)。
考証の緻密さには注目すべきですから、この漫画の読者の方がまず気付いてなさそうな蘊蓄を書いておきます。題して「『陰陽師』ノート」。
まずは道真の漢詩について。冒頭から堂々と登場している(しかも1頁まるごと)彼ですが、漢詩も最初から出てきます。
第1巻の百鬼夜行の「風情断織す 璧池の波/更に怪しぶ 鬼神の四面に多きこと」「月を下にして徒らに沈酔することより醒むるべし」は「詩を吟ずることを勧めて、紀秀才に寄す」(『菅家文草』02:094)が出典。ただし、2句目「鬼神」は「通儒」をわざと変えたものです。「断織」や「璧池」は学問と縁のある言葉なので、この操作で関連がぷっつり切れていますね。
第2巻の「精霊冥漠に入りて……以て使君が誄に代へむ」は「奥州藤使君を哭す」(『菅家後集』486)の引用。ただし一部省略しています。内容は晴明本人による解説の通りですが、部下だった藤原滋実を友人扱いして良いのかは少々疑問含み。
これらの漢詩について、大岡信『詩人・菅原道真』を読んだのではと思っていますが、大岡氏が引用した日本古典文学大系自体にも目を通しているはずです。大岡氏は途中省略しているので「終わりの十韻」(第2巻158頁)が「哭すること罷みて平生を想ふ」以下だということが分かりにくいのです。
この見方が決して的外れでないことは「オヤジの大好きな白菊」(第7巻94頁)の一言でも明らか(道真の白菊偏愛癖は玄人レベルの知識)ですが、第7巻は囲碁の話なので、「醍醐天皇に献上した詩集」(111頁)即ち『
まず「手談ならぬ口談の人」(112頁)は「手談厭却す 口談の人」(01:031「王度の碁を囲むを観て人に献呈す」)を踏まえています。そして「河内権守にささげた詩」(111頁)とは「河州藤員外刺史に謁し、聊か懐ふ所を叙べ、敬みて以て奉呈す」(01:065)のこと。「囲碁を見ているうちに斧の柄が腐るという話」(95頁)はそのものずばり「囲碁」という題の詩(05:414)の大系本頭注にもあるように、中国の史書『
なお、第7巻101頁、『詩経』の「深淵に臨む如く」云々(小雅・小旻)は大系本の補注658頁にも記載されています。『詩経』自体から引用した可能性は否定しませんが、「試験の論文」(第7巻111頁)も含め、これほどまでに詩句を取り込んでいるとなると、ブレーンがいるんでしょう。
ところで、小説と漫画で内容が異なっていたりするこの作品、上述の話は原作には全くありません。読者の方にうかがったところ、「著者(岡野氏)は道真を重要人物として位置付けているのではないか」という旨の解説をいただきました。登場回数が意外と多いのは博雅の外祖父が藤原時平という関係もあるのでしょうが、怨霊を描きながら、単なる怨霊として扱っていないのは珍しいです。……案の定登場するたびに調伏されてますけど(笑)。
ついでに説話関係についてもお話しましょう。
先に触れた百鬼夜行の続き。藤原時平の両耳から龍が出てくる。道真(の怨霊)が石榴を噛んで吐き出すと燃え上がる。これ両方とも『北野天神縁起』に出てくる話です。
そして「それでよく天帝になんだかんだ乞えるな」(第7巻62頁)は、道真が天道に無実を訴えたという、『
これは余談なのですが、この漫画は主人公2人より周囲の女性陣を眺めている方がよほど楽しいです。藤原安子とか安倍高子とか美人揃いなのを見ていると、女性を主役に据えた話を描けばいいのにとつくづく思います。それから、脇役の胸中については文字で書かないほうが望ましい。彼等の感情表現は台詞やしぐさでさりげなく示すのが理想的と考えているのですが、いかがでしょう。主人公の発言は難解極まりないんですから、読者に解釈を任せても大丈夫ですよ。
(おまけ……カバーデザインのこと)
背表紙にある灰色の6本の線、実は表紙見返しに載っている易の卦なんです。お気づきでしたか?