菅原道真が北野に祭られるにいたった歴史的経過について、なるべく簡潔かつ明快にまとめてみました。
菅原道真が大宰府で客死したのは延喜3(903)年のことですが、その後左遷に荷担したと思われる公卿が次々と亡くなります。延喜6(906)年大納言藤原
当初道真の祟りとは考えられていなかったようですが、水面下でささやかれ始めた噂も、延喜23(923)年皇太子
そこまでして皇太子に据えた孫の
天慶2(939)年、関東で桓武平氏一族の内紛に端を発する反乱が起こります。平将門による天慶の乱のことですが、関東各国の支配権を奪い、託宣を受けて「新皇」と称しました。反乱を正当化する託宣をもたらしたのは、王権を支えながらも多分に反逆的な性格を持つ八幡神であり、支持したのが道真の怨霊でした。
天慶4(941)年には、修験道の聖地である吉野金峰山で修行していた
ところで、平安前期は
『扶桑略記』などを見ると、時平が死んだあたりから、日食・月食・彗星・落雷・地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行といった記事が毎年のように目立つようになります。これらの現象が道真の祟りだと噂されていたのは想像に難くありません。
そんな中、天慶5(942)年、西京七条に住む
そして天慶8(945)年、
天慶9(946)年、道真の霊が近江比良宮の神官
さらに時の為政者である藤原
これで道真の御霊は沈静化したかに見えましたが、そうではありませんでした。半世紀が経過した正暦4(993)年、道真は正一位左大臣を追贈されましたが、その背景には天然痘の流行がありました。しかも託宣により贈官を拒まれたので、朝廷は太政大臣を追贈します。また、清涼殿が被災した6月26日は、後々まで貴族達にとってことのほか落雷を恐れる日であったようです。
元来、「北野」は平安京の北方を総称する言葉に過ぎません。しかしその一部である右近馬場がことさらに天満宮の社地として選ばれた背景には、雷公を祭る地だったことに加え、右近馬場と大内裏の位置関係もあるようです。大内裏の西北の隅は、北野天満宮の少し南にありました。大内裏でも平安京でも、四方の隅は疫病が侵入する場所と見なされ、阻止するために祭祀が行われる場所でした。その名残りが天満宮に程近い大将軍八神社です。
振り返れば、貞観5(863)年に初めて朝廷が御霊会を主催した時、会場となった神泉苑は大内裏の東南隅に接していました。この場合と同様に、疫病をもたらす怨霊を封じるために、大内裏の隅が選ばれたようなのです。大将軍は金星を神格化した道教の神ですが、難波宮の西北に祭られた大将軍社を吸収・発展させたのが大阪天満宮であることも、注意しておきたいところです。