所在地:山口県
交通:JR山陽本線・防府駅下車
(傾向)いや、物理的にも駅から遠いのですが。
(対策)マクラだと思ってお聞き下さい。
「
空路なら羽田から山口宇部空港、新幹線なら西側の新山口か東側の徳山から在来線に乗り継ぎます。いずれにしろ止まる列車が多くないので、東京方面から新山口まで行って戻った方が早いことがあります。また、大阪と博多から高速バスが出ています。
防府駅に併設されている観光案内所で地図を入手し、正面の道を北上。すると太い道路に出ますので、右折して東へ。400mほど行けば商店街に出ます。あとは左折してひたすら北へ。天満宮自体は高台にありますので、見失うことはないでしょう。駅からの所要時間は20分。
困ったことに観光エリアを走る路線バスがないので、本気で市内観光をしようとすると、有料のレンタサイクルを使うしかないみたいです。同様に駅から観光地までが遠い鶴岡は無料だったんですけどねぇ、自転車……。
天神縁起は冒頭の文章によって甲類・乙類・丙類・丁類(安楽寺本系)の4種類に分類されますが、そのうち、最もスタンダードなものが「漢家本朝霊験一にあらざる中に……」で始まる丙類です。北野天満宮が所蔵する弘安本が現存最古のものですが、絵解きに用いられていたようで痛みが激しい上、絵画の一部は東京国立博物館・大東急記念文庫・シアトル美術館に分蔵されています。
それに対し、防府天満宮が所蔵する松崎本(重要文化財)は、奥書に「見たいなら参詣せよ、たとえ権勢家でも外に出すな」と断わるだけあって、完本で保存状態も良いので、天神縁起の概要を知りたければ、まず松崎本を読むことをお勧めします。
その松崎本が他の丙類諸本と大きく異なるのは、最終巻が松崎天神(=防府天満宮)の創建縁起となっている点です。通常の天神縁起の後に自社の創建縁起を加える形式を「御当地縁起」と呼ぶ研究者もいますが、この御当地部分に創建の経緯が記されているのです。
この巻六は独自に書き起こされた文章だけあって、巻五までとはうって変わって対句を多用した和漢混交文で天神の神徳について記した後、次のように述べます。『続日本の絵巻22 松崎天神縁起』より。
宰府 にうつされ給 し道すがらも、旧里 に留め置きたてまつりし御事 のみ、恋慕 の御心 の色深くならせ給しかば、朝夕馴 れ睦 び給え る御中は、たがひに離れがたく、老少近く召し使はるゝ眷属 は、いかに睦まじく思 しめしけん。
さる程に、防州勝間 の浦に着かせ給ける。ひと夜の御旅寝 、賤 しの海人 の苫屋 、御目慣れぬ御住居、たとえ む方なきさまなれば、いとゞ尽きせぬ御涙にかきくれさせ給へり。
「この地、いまだ帝土を離れず。願 ば、居をこの所に占めむ」と御誓ひありけるにや、光明 海上に現じ、瑞雲酒垂山 の峰に聳 て奇異の瑞相 化現 しければ、時の国司をはじめて渇仰 の心、肝に銘 じ、随喜 の思ひ感を催して、海浜 に臨みてこれを拝見しあへり。
その時、国司宝殿を建立し、玉扉 を開きしより、ここを松崎の社 と号せり。
都に残した人や物事を忘れがたく思っているところに、周防勝間駅に到着した道真は、漁師小屋に宿を取り、泣きながらこう告げました。
「この(周防の)地は、まだ都に続いている。できればこの地に住みたいものだ」。
当然の事ながら、延喜3(903)年に海の向こう、大宰府で最期を迎えますが、終焉の時、勝間の沖に光が差し、酒垂山には光り輝く雲が現れました。この噂を耳にした国司たちは浜辺へ急ぎ、不思議な光景を目の当たりにしました。そしてこの現象を菅帥のここに留まらんとする遺志と受け取った彼らは、酒垂山に社殿を建てたのでした。
小松茂美氏によれば、この「国司」とは周防守
防府はその正統性と古さから、一般には北野・太宰府とセットで「日本三天神」と称されます。それゆえ「防府の記事は書かないんですか?」とよく聞かれるのもやむなし。ただ……。
「北野・太宰府3時間、防府は4時間超」。何を指すか分かりますか? これ。片道の所要時間なんです。3時間が日帰り可能かの境界線だと思いますので、この違いは大きい。朝出発して着いた頃には昼を過ぎてる、ですから。しかも交通費も割高とくれば、用事もないのにシブチンが行くはずもないのでした。
鈴木宏昭宮司との初顔合わせは2001年9月、福岡市立博物館。特別展「天神さまの美術」の開会式の後のこと。2度目は2002年4月、名古屋市博物館。特別展「北野天満宮神宝展」開会式の後。没後1100年記念で特別展が続いた時期の話ですね。つかまえて名刺を渡すと、「全部の会場にいらしてるんですか?」とにこやかに一発。京都・東京・福岡・大阪と会場を総ナメ(しかも福岡以外複数回!)したのは事実なので、弁解の余地はなし……。でもね、名古屋に来たのは主催者サイドから正式に開会式へ招待されたからなのですよ(力説)。実際、最後の金沢には行ってません。
はてさて。以来「なかなかお伺いできなくてすみません」と年賀状に何度書いたことか。今年こそ11月第4土曜の裸坊祭に行ってやる〜! とついに一念発起。直前にハガキを送り、前々日に帰省し、前日にチケット購入のためローソンへママチャリを走らせる。しかし肝腎のバスが満席であっけなく挫折。そして年が明け、本家の鷽替えを見に太宰府へ行った帰り道、ようやく防府へ寄ることに。
朝9時、JRの真っ赤な高速バスで博多駅を出発。停車箇所と乗客が少ないのをいいことに、空席に移動して補助イスを出し、座席を倒し、3席を占領して音楽を聞きつつのんびり朝寝。
2時間半後、防府駅前に到着。駅舎に無意味にぶら下がる梅鉢紋入り提灯を見つけ、その中途半端さにツッコむ。そして関西圏の観光パンフの類が普通に置いてあるのに再度ツッコむ。ようやく駅の隅にあるコインロッカーに荷物を押し込み、身軽になっててくてくお散歩開始。
名産品を紹介している施設とか、山頭火の句を書いた板が民家の壁に掛けられた通りとか、遠いのをいいことに、あちこち寄り道してみました。と言いますか、遠過ぎて目的地だけを目指して黙々と歩いていると、苦行のように思えてくるんです……。
道中どこからでも酒垂山と社殿が見えるのはイイ。……ですが、山登りをするとなると話は別。大きな鳥居をくぐって石畳を抜けると、その先は立派な石段。しかも石を切って並べたのではなく組んだ代物。予備知識はあってもやっぱりイヤ〜! でも帰れない(泣)。
「和歌浦天満宮よりは可愛いかな」
「有名な分だけ立帰天満宮よりはマシじゃん」
「与喜天満宮や天拝山みたいに遭難しそうになる心配もないしさ」
と、かなり強引に自分をなだめすかしてどうにか登り切る。
本当は毛利氏バンザイな知人を引きずってきて、「平地育ちだから山ダメなのよー!」と久々に叫ばせてみたかったんですけど、所用ありとかでキャンセル。ちょっと侘しいか。
半ばヨレヨレになりながら登り切れば、視線の先には楼門の姿が。
ガイドブックなどを見ていると、決まってここの写真が出ていますが、それもそのはず。赤・緑・白と、和テイストのイタリアンカラーでそびえ立つ楼門の方が、木肌を残した社殿よりずーっと派手なんですね。
さて手水はと言いますと、右側にありました。立体的な梅(多分)の花の花弁端中央部をとがらせ、そこから水をしたたらせる、ケッタイな、もとい独創的なデザイン。なるほど、これならひしゃくのメンテナンスの問題は生じませんね。「ひしゃくに口つけちゃダメ〜!」と叫ぶ必要もないし。初見だと間違いなくひしゃく求めてもたつきますが。
では早速、手を伸ばして左手・右手・左手・口をゆすいでも一度左、と。
手水 | 狛犬 |
あともう一つ、実にツボにはまるのが狛犬クン。鳥居をくぐる回数に比べ、狛犬に興味を示さないクチは珍しいと思いますが、このコ、松崎本天神縁起の最後の場面で社殿の前に座っているコと同じなんですよ。 スゴーい、デザインちゃんと踏襲してる〜!
(傾向)観客はいつだって無責任。
(対策)当事者のホンネを、どうぞ。
境内が少々混んでいるのは正月の余波かと思いきや、午後から何かあるらしい。何でも成人の日に弓の引き初めを行うとかで、折角だから見物することに決定。しかし中途半端に境内をウロウロしてしまったため、見事に昼食を食いっぱぐれる羽目に。ホントは境内の食事処で神事に使う料理を盛り込んだメニューを食べるつもりだったんですが……。あー、いつもながら優柔不断な性格が嫌になる。
弓射に先立って社殿内部で神事が行われていました。祝詞とお祓いだとは思うものの、案の定良く見えず、良く聞こえず。その後、境内の設営作業に入ります。参道中央の両側にロープを張り、楼門の扉を閉めて的をセット。的には黒いダーツ模様の上に赤い字で「邪」と大書きされています。
そこにスタッフ御一同が弓を持った若人を引き連れて登場……、なんですが、宮司さんまで笏でなく弓を握っている。ピチカートで
狩衣の片袖だけを脱いで相対して立ち、手にした矢は2本。ここまで来ると形だけで済むはずがありません。1本目、ハズレ。いやに静かな境内に、カランカランと無情な音が響き渡る。2本目、命中。ややあって観客より拍手が起きる。
後は振袖・袴姿の新成人の方々が京都の三十三間堂よろしく矢を通します。ローカルニュースならこれからがハイライト。時に当たったり、時には外したり。トリはスタンダードに黒い羽織と灰色の縦縞袴姿の男性でしたが、着物をはだけて胸まで露出させ、バシッ、バシッと力強く命中させていました。格好エエ。
弓射に挑む宮司 | 新成人による弓射 |
終了後、宮司さんの口から「今年は無事に命中して良かったです」と、端正な顔に似合わぬ言葉。
「2回とも外す年もあります?」「あります。『あぁ……』って、観客の溜息が聞こえるんですよ……」
よそみたいに現役の弓道部員に任せてしまえばいいじゃん、と言いたいところですが、「
ただ、この話から「道真は文武両道だった」と説明する向きもありますけど、聖徳太子と藤原道長にも同様のエピソードがありまして、おおもとをたどれば、「釈迦が子供の頃から年長の兄貴達より弓に優れていた」という話の焼き直しなんですよ。試験の前に試験官の家に行かないだろうという坂本太郎の冷静なコメントもむべなるかな。むしろ、
そういえば、学生の娯楽は弓と琴だけなのに、道真は琴との関わりにしか言及していないような。しかも「北野天神御伝」には「(正月の)
(傾向)何でこんな題名になるのか、最後まで読まないと分かりません。
(対策)途中で挫折しても、それはそれで仕方ないと思いますが……。
境内を適当に散策していると、段差に足を滑らせそうになる。とっさに体勢を立て直したら、正面には向かいの建物からちょうど出てきた鈴木宮司の姿。穴があったら入りたいとはまさにこのこと。ややあって視線が合った後、見なかったのか、見て見ぬふりなのか、その事には触れることなく中へ案内されました。
床の間には天神の掛軸(岡山県立美術館蔵のものの複製?)と臥牛の置物。ありそうで意外とない直球ストレートなしつらいに、参拝客がいなければ突っ伏して笑い転げたいところでした。
悲しいかな、アクセスの悪さが響いてそうそう来ないだろうとお互い了解しているせいか、スタッフの佐伯さんがた〜っぷりと境内を案内して下さいました。こういう体験はなかなかできないと思いますので、役得ですね。
まずは春風楼へ。鐘楼か絵馬堂かと思いきや、実体はさにあらず。二層の屋根と吹き抜けの柱からなるこの建物、江戸末期に毛利家が五重塔を建てようとして未完成に終わった名残りだとかで、五重塔の軒下に入るはずだった組物が床下に入っています。
小高い場所にある境内をさらに底上げして建ててありますので、ここから眺める光景は、ちょっとした展望台。防府市外を足下に眺めながら、左斜め前方が埋め立てられた勝間浦だというマトモな話から、昔の人は中心部に鉄道を通されるのを嫌がったためにこんなに駅から遠くなってしまったという今では信じがたい話まで、話題はつきません。
とりわけ何度も話に出てきたのが、高杉晋作率いる奇兵隊との関わり。
……がしかし、戦国と幕末にとんと暗いパックス・ロマーナな筆者には、まさしく猫に小判。そりゃまあ天拝山山頂の石柱に刻まれた「霊魂尚在天拝之峰」の句が、高杉晋作が獄中で詠んだ詩の一節で、讒言の犠牲になった忠臣として楚の
そのせいで話の7割方が脳内を素通りしている危険はありますが、萩と防府を勤王の志士が頻りに往来していたという話には、「へぇ」と「ほぉ」の連発。確かに萩は天神社がいくつかあるんですよね。遠過ぎて行ったことはありませんが。
次は宝物殿。松崎本は修理のために京都国立博物館へ寄託中ということもあり、館内はすっかり貸切状態。奇兵隊の後援者の一人だった尼僧・野村望東が7日間参籠をした際、毎晩1首ずつ詠んだ和歌短冊の実物もありましたが、説明もそこそこに興味が湧いて駆け寄ったのが、木彫の天神座像、彩色つき。
ひと抱えもある凛々しい天神人形の前で、直感的に「あ、これ欲しいな」という思いが頭をよぎる。さすがにそれはまずいので、無理を承知で質問。
「写真撮ってもいいですか?」「どうぞ」。
後はアングルを変えながらひとしきり撮影会。何でも、「菅原大神」と墨書した旗ともども、奇兵隊の陣中奥深くに祀られていたものらしい。
……ひー、高杉晋作、道真さんに傾倒し過ぎー。
そしてその秘仏的存在に、「凛々しい表情がそそるなぁ」「この大きさだとさぞ抱き締め甲斐があるだろう」などとあらぬ欲望に燃えていたのは、不遜でありましょうか(笑)。
続きまして茶室。面白いことに2階建てです。茶室らしさを求めるなら1階なのでしょうが、2階は格段に日当たりが良いので、低い高さの本棚を入れて、寝転がって日がな1日読書なんてできたら最高のシチュエーションでしょうね……って、使用目的が違いますか。
1階茶室 | 2階茶室 | 2階茶室の天井板 |
床柱にはそれなりの由緒ある木材を使いますが、2階は伊勢神宮から拝領した古材です。「いくら磨いても波目模様が消えなかった」とかで、上下に走る木目を無視して右上から左下にかけて斜め模様がくっきり。
そして見逃せないのが天井板。ねじり梅が何箇所も彫りぬいてあり、粋なウィットの利かせ方に、いたく喜ばせてもらいました。もし天神社の王道とも言うべき梅鉢紋で処理していたなら「ベタな(=手あかのついた)ギャグ」に陥ってしまったところでしょう。
ついでにちょっと歴史のお話でもしてみましょうか。
日本における茶の歴史は、鎌倉時代、中国帰りの栄西(臨済宗の開祖)が源実朝に二日酔いの薬として差し出したのが起源のように思われがちですが、実際はさにあらず。平安時代初頭には既に飲用されており、嵯峨天皇も空海と茶を飲んでいます(『経国集』巻10「海公と茶を飲み、山に帰るを送る」)し、道真もしばしば口にしていました。
その効用は、都良香の言葉を借りれば「体内のバランスを整えてストレスを発散し、病気を治すもの」ということになりますが(『都氏文集』巻3「銚子廻文銘」)、道真が茶を服用する状況は確かにそれを裏付けるものです。讃岐の地で亡き父を偲んで法華経と共に酒と詩の代わりとし(『菅家文草』04:298「八月十五日の夜、旧を思ひて感有り」)、陸奥に下った娘と孫を案ずるあまり眠れず(05:360「仮中書懐詩」)、また大宰府では腹部に凝集した苦悩を散じようとして(『菅家後集』500「雨の夜」)、茶を含んでいます。その他、唐に滞在していた僧侶が国内情勢を記した報告書に添えて茶を届け(『菅家文草』10:633「勅を奉じて太政官の為に在唐僧中〓に報ずるの牒」)、別の僧侶は宇多上皇一行に対して果物と茶を振る舞っており(『扶桑略記』所引「宮滝御幸記」昌泰元年10月24日条)、喫茶の風習は道真に限らず受け継がれていました。
近年茶室を設けたのは、豊臣秀吉の北野大茶会に先立つ上記のような歴史的経緯を踏まえてのことですが、問題は彼らの飲んでいたお茶が、緑色のそれではないということ。加熱し発酵させた後に円形に固めて乾燥させた「団茶」だと長い間言われてきましたが、違うという指摘をどこかで読んで、「じゃあ一体どれだったんだ〜?」という疑問で一杯です。
後は大広間で抹茶を(なぜかお代わりまでして)頂きながら、ひとしきり雑談。夕方になって社務所へ移動し、宮司さんと少し話をしてから宮司さんの車(国産高級車)で佐伯さんに駅まで送ってもらうことに。洋楽のBGMつき。途中でエンヤが流れたので、聞くと「宮司の趣味です」とのこと。言葉が分からないのでほとんど洋楽は聞かないんですが、脚韻踏みまくっているせいか、珍しくCD揃えてるんですよね。それで道真さんの漢詩訳す時などに使うんですが、こんな所で感性が揃うとは。はっはっは。
時間に余裕があったので、毛利氏庭園(の入口)・国分寺跡と、わざと大回りして車窓から市内観光としゃれこみました。そして駅前でお別れして、料金表を見上げてはたと気付く。
「あぁーっ、『結び守り』買うの忘れた!」
神社を訪問する度にお守り買っていればタンス中がお守りだらけになってしまう(笑)ので、まず買わないんですが、今回は話が別。だって黒と赤の組み合わせって
そこで冷静に時間を計算。残り時間は約50分弱(←1本早い新幹線で帰ると思われていたらしい)。片道20分だから、行って即買って帰って来ればまだ間に合う!
「そっち戻っていいですか?」と、なぜか社務所に電話を入れてから猛ダッシュ。
授与所では宮司さんに迎えられましたが、本気で呆れられたに違いない。
「『帰る時でいいや』と思ってたら、きれいさっぱり忘れてまして……」
笑ってごまかすしかありませんでした。
今度は宮司さん自身の運転で駅まで再度送られ直し。かくして人件費とガソリン代を酷使した1日は終わりましたが、原稿用紙20枚分の記事で投資のモトは取れましたでしょうか? 鈴木様、佐伯様。