山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』03:235

宿舟中  舟中しうちうに宿る

寄宿孤舟上  寄宿す 孤舟 こしうの上
東風不便行  東風 たび便びんあらず
客中重旅客  客中 重ねて旅客たり
生分竟浮生  生分 つひ浮生 ふせいなり
語得塩商意  語得かたらんとす 塩商のこころ
欲随釣叟声  随はんとほつす 釣叟てうそうの声
此間塵染断  此間ここは 塵染ちんぜんえたり
更嬾問家情  さら家情 かせいを問ふにものう

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解説

 仁和3(887)年の秋、道真は休暇を取り、讃岐から都に戻りました。国司は、現状報告のために休暇を取って一時帰京することが任期中に一度だけ許されていた(『類聚三代格』巻7・牧宰事・貞観10年6月28日付太政官符)ので、この規定に沿った行為なのでしょう。この詩は、都への旅の道すがら、船上で詠んだ詩です。

 平安京までは最短でも6日間の行程で(『菅家文草』03:234「倉主簿が情を写せし書を得、報ずるに長句を以てし、兼ねて州民の帰らざる疑ひを謝す」および『延喜式』主計上を参照)、途中、何日間か瀬戸内海沿岸を航行する船の上で眠ることになります。半世紀後、紀貫之きのつらゆきが土佐から帰京した時は、瀬戸内海を跋扈する海賊に襲撃されることを恐れ、夜中から船を走らせましたが、この頃はまだ海賊を心配する必要もなかったようで、のどかな心境がこの詩に反映しています。
 この日は向かい風で進むこともままならず、岸に船を停泊させて便風を待つことになりました。「東を目指しているのに風まで東風だと余計時間が掛かるから困るね」などと冗談を交わしながら、日頃のように雑務を気にする事なく、いささか解放感を覚えながら紙と筆を手に取りました。

 ここで「塩商人の気持ちも漁師の翁の言い分も理解できる」と言うのは、地元民の困窮ぶりを描いた連作「寒は早し、十首」の題材として、第8首に「魚を釣る人」(03:207)、第9首に「塩を売る人」(03:208)が登場するように、海に面した讃岐では漁業や製塩業が行われていたからです。こう前置きした上で彼が綴ったのが、後に続く「舟行五事」(03:236)です。第1首「磯のほとりの松」・第2首「釣りをめし翁」・第3首「海を渡るかのこ(子鹿)」・第4首「繋がざる舟」・第5首「粒を絶てる僧」という沿岸の実景に、『荘子』の思想と自己の感情を重ねて詠んだ連作ですが、第2首と第4首が、まさに漁師の翁と塩商人の話であり、「舟行五事」への枕の役割を果たしていると考えられています。

 第3句「中重旅」や第4句「分竟浮」は、道真が得意とした「対称形リフレイン」とでも呼びたい文字の配列法です。ここで「地方での赴任生活は旅である」という認識(03:224「春尽」を参照)を取り出し、「旅の最中なのに、またこうして旅に出ている」とユーモアを込めて詠じます。
 ただ第4句「生分竟に浮生なり」の解釈は疑問を残すところで、大系本によって意訳すると「(讃岐は)対立を好む土地柄だがそれも浮き世の性だ」となります。川口久雄が指摘する通り、「生分」は『漢書』巻28下・地理志に見える言葉で、顔師古注に「『生分』とは、父母在れども昆弟(兄弟)財産を同じくせざるをふ」とあり、「肉親で財産を奪い合う」という意味になります。讃岐の人々が事あるごとに訴訟を起こしていたことは、前任の讃岐守であった藤原保則やすのりの伝記(作者は三善清行)にも記されるだけに、国内の実情とも齟齬しません。道真が『漢書』に明るいことは事実ですが、そう理解すると、わずらわしい世間から隔絶した船の上で、自宅の様子を問うことさえ面倒がり、漁師や塩商人の心情を語ろうとする叙述態度にはそぐわないと思います。第3句の「旅の上に旅を重ねる」という理知的な諧謔と対比させて考えるに、「(はかない人生を)生きているのにまた水の上に浮かんでいる」の意味ではないでしょうか。つまり、川口が否定した説を取り、「生分」は「人生の定め」と解釈したいと思います。人生のはかないことを「浮生」と言いますが、文字通り「浮かんで」いることに面白味があるのです。

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口語訳

船中に泊まる

宿泊する 一隻の船の上
東から吹く風は (東への船旅に)都合が悪い
(地方赴任という)旅の中で さらに旅人になり
人生とは つまるところ(このように水上を)漂う生活なのだ
(そこで)語ろうと思う 塩商人の気持ちを
従いたいと思う 釣りをする老人の声に
ここでは (世俗の)塵に汚されることもない
まして家の様子を尋ねるのは面倒だ

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