七年暮春二十六日、 七年暮春二十六日、
予侍東宮、有令曰、
「聞大唐有一日応百首之詩。 「聞くならく大唐に一日に百首に
今試汝以一時応十首之作」。 今
即賜十事題目、限七言絶句。
予採筆成之、二刻成畢。 予筆を
雖云凡鄙、不能焼却。
故存之。 故に
(1)送春 (1)春を送る
送春不用動舟車 春を送るに 舟車を動かすことを
唯別残鶯与落花
若便韶光知我意
今宵旅宿在詩家 今宵の旅宿は
寛平7(895)年の3月26日、道真が
「唐には一日で詩百首を詠んだ者がいるそうだ。どうだ、そなたは二時間で十首詠めるか?」
詩1首当たりの平均所要時間を試算すると、1日100首では14.4分(24時間×60分÷100首)、2時間10首では12分(2時間×60分÷20首)となります。集中力の持続時間や休憩などを考慮すると後者の方が少なからずハードルが低くなるとは言え、
わずか11歳の少年がこのような課題を道真に与えたのは、ちょうど2年前の立太子当初、道真が
それから5年が経過し、『菅家文草』を編纂するにあたり連作群を読み返すと、速吟ゆえ内容を作り込んでいない点が気にかかり、収録するべきか迷いました。しかし、醍醐天皇こそが『菅家文草』を奏上する対象であり、自らの作詩技術を記録するという意味からも見過ごすのは惜しく、一括して収録する道を選びました。題が長いのは、このような作詩事情を説明する必要があったからです。
皇太子の言う「1日百首の詩」が具体的に誰のどの作品を指すかは明らかではありません。ただ、高島要氏によれば、うち6首の題が『
連作の第1首の題は「送春」。3月26日という時節を端的に反映したものです。春の象徴として鳥(鶯)と花を提示し、別れを惜しんで、せめて我が家に一晩仮寝をと擬人化した春に呼び掛けます。これはまさに「三月尽」を扱った作品であり、03:188「中途にて春を送る」・03:224「春尽く」・04:251「四年三月廿六日の作」などの詩の延長線上にあります。時間制限のみならず、皇太子の教育に役立つよう意識して作られたこともあり、平易で分かりやすい表現を旨とした作品です。
(寛平)七年三月二十六日、
私が東宮に
「聞く所では大唐では一日に百首(の題)に応じた詩があるという。
今、試みにそなたは二時間に十首(の題)に応じた詩を詠め」とお命じになった。
そこで十個の事柄を詩題に
私が、筆を取って仕上げたところ、一時間で作り終えた。
(その詩は)平凡で粗野ではあるが、焼き捨てることもできなかった。
そのため残している。
(1)春を見送る
春を見送るには 船や車を動かす必要はない
ただ別れを告げるだけだ 時期遅れの鶯と散る花に
もし春の光に我が心を知らせるとしたら
今宵は詩人の家に宿るようにと