書斎記 書斎記
東京宣風坊有一家、
家之坤維有一廊、 家の
廊之南極有一局。 廊の南の
局之開方、纔一丈餘。 局の開けること、方
投歩者、進退傍行、 歩を投ずる
容身者、起居側席。 身を
先是、
秀才・進士出自此局者、
首尾略計近百人。 首尾
故学者、
目此局為竜門。 此の局を
又、号山陰亭。
以在小山之西也。 小山の西に
戸前近側、有一株梅、 戸の前の近き
東去数歩、有数竿竹。 東に去ること数歩にして、
毎至花時、 花の時に至る
毎当風便、 風の
可以優暢情性、 以て
可以長養精神。 以て精神を
余、為秀才之始、 余、秀才
家君下教曰、
「此局名処也。 「此の局は名処なり。
鑽仰之間、為汝宿廬。」
余、即便、 余、
移簾席以整之、
運書籍以安之。 書籍を運びて以て
嗟〓、
地勢狭隘也、 地勢は
人情崎嶇也。 人情は
凡厥朋友、有親有疎。
或無心合之好、顔色如和、
或有首施之嫌、語言似昵。 或いは
或名撃蒙、妄開秘蔵之書、 或いは
或称取謁、直突休息之座。 或いは
又、
刀筆者写書刊謬之具也。 刀筆は書を写し
至于烏合之衆、
不知其物之用。
操刀則削損几案、 刀を
弄筆忽汚穢書籍。 筆を
又、 又、
学問之道、抄出為宗、 学問の道は、抄出を
抄出之用、稿草為本。 抄出の用は、稿草を
余、非正平之才、 余、
未免停滞之筆。 停滞の筆を
故、此間在在短札者、
惣是抄出之稿草也。
而〓入之人、
其心難察。
有智者、見之巻以懐之、 智有る者、見て巻き以て
無智者、取之破以棄之。 智無き者、取りて破り以て棄つ。
此等数事、内疾之切者也。 此等の数事、内に
自外之事、米塩無量。 自外の事、米塩無量なり。
又、 又、
朋友之中、頗有要須之人。 朋友の
適依有用、入在簾中。
〓入者、
不審先入之有用、 先入の用有るを
直容後来之不要。 直ちに後来の要あらざるを
亦何可悲、亦何可悲。
夫、
董公垂帷、
薛子踏壁。
非止研精之至、
抑亦安閑之意也。
余、今作斯文、 余、今
豈絶交之論乎、
唯発悶之文也。
殊慙、
〓外不設集賢之堂、
簾中徒設〓入之制。 簾中に
為不知我者也。 我を知らざる者の為なり。
唯、知我者、 唯、我を知る者、
有其人三計人。 其の人
恐避燕雀之小羅 恐るらくは
而有鳳凰之増逝矣。 鳳凰の増逝すること有らんことを。
悚息悚息。
癸丑歳七月一日記。
寛平5(893)年7月1日、参議・
「書斎記」の「記」とは文体の名称で、事実をありのままに書いたものです。さらに自分の意見を述べるものもあり、「書斎記」もその一例です。この文章は、『菅家文草』の他、平安後期に藤原
『菅家文草』 | 『本朝文粋』 | 検討結果 |
---|---|---|
嗟〓 | 嗟乎 | どちらでも可能 |
或有無心合之好 | 或無心合之好 | 「有」不要(後述) |
首陀之嫌 | 首施之嫌 | 「首施」とすべき(後述) |
弄筆忽汚穢書籍 | 弄筆亦汚穢書籍 | どちらでも可能だが、 「忽」の方がより適切(後述) |
此等数事 | 此等之数事 | どちらでも可能 |
内疾之切 | 内疚之切 | どちらでも可能 |
豈絶交之論乎 | 豈絶交之論哉 | どちらでも可能 |
七月一日 | 七月日 | 「七月一日」とすべき |
あってもなくても意味が変わらない助詞「
まず「或有無心合之好」ですが、ここは、
6或無心合之好、4顔色如和、
6或有首施之嫌、4語言似昵。
と、6字・4字・6字・4字の
また、「
同じ作品が複数の書物に収録されていると、このように差異を比較し、より適切なものを採用する作業を行います。異なる写本など、同じ書物でも別の本があれば、やはりこの作業が必要になります。どれでも意味が通じる場合はベースとした本の記述に従うことになります。中には全部不適切ということもあり、字形の似た文字を考慮するなどして正解を別途求める必要が出てくることもあります。道真の場合、テキストごとの差異が小さいために語彙レベルで判定できますが、物語などでは表現はもちろん内容まで違ってくるようです。
本文を訂正する必要があるのは上に挙げた2箇所ですが、もう一つ付け加えるなら、「弄筆忽汚穢書籍」と「弄筆亦汚穢書籍」では、どちらでも意味が通じますが、前者の方がよりこなれた表現です。やはりここも対句で、
操刀則削損几案、
弄筆忽汚穢書籍。
とすると、同じ副詞でも意味まで似ている「則」と「忽」が対になるからです。
では、内容に入ります。
この文章により、当時彼が宣風坊こと左京五条に居を構えていたことが明らかになりますが、そこから、左京五条 → 家 → 南西隅にある廊下 → 南端の一室と、大から小へのクローズアップによって書斎にたどり着きます。これは、テレビカメラで俯瞰するのにも似た、視覚的な描き方です。
廊下の南端にある部屋は各辺3mほどしかない小さなもので、面積で換算しても6帖間より狭い空間でした。そこに棚や
近くには一本の梅の木とささやかな竹林があり、部屋の中から花の香りと竹が風にそよぐ音を楽しむことができました。東には小さな
古くなった廊下を10年前に新築した際、その壁に道真が書き付けた詩(『菅家文草』02:114「小廊新たに成り、聊か以て壁に題す」)を読むと、建物の位置関係は「書斎記」の内容とよく似ています。「書斎記」に登場する一室は学生の頃から使ってきた部屋ですので、同じ建物と考えられますが、廊下からは外の様子が見聞きできたそうですから、書斎も廊下も、敷地の西端にあったようです。
この書斎は、道真が父是善から譲り受けたものでした。それは
部屋を譲るに際し、是善が「由緒ある部屋だから」と言ったのには理由がありました。道真が「この部屋から輩出した文章得業生・
あくまでも移動用の経路に過ぎない現在の廊下とは違い、寝殿造りの廊下は幅も広く、宴会を開くことも可能でした。道真の祖父
道真が生まれたのは是善が
学者の元に学問を志す人々が集まり、私塾を形成していたことは菅原氏に限ったことではありません。ただ、菅原氏の場合、清公・是善・道真と3代に渉って私塾を運営しており、規模と実績は他の塾とは比べ物になりませんでした。そこで他の学者達は急流の滝を登り切った魚だけが竜になれるという言い伝えから生まれた登竜門の故事(『後漢書』李庸伝)に倣い、「竜門」と呼んだのです。道真が学界抗争の渦中に身を置き、何度も誹謗中傷を受け(『菅家文草』02:098「思ふ所有り」・02:118「詩情怨」)、逆に他の学者を声高に批判していた(02:094「詩を吟ずることを勧め、紀秀才に寄す」)背景には、一大学閥の存在がありました。
さてここで、平安前期の教育制度、特に道真が学んだ
貴族の子弟は早ければ4・5歳、遅くとも7歳には家庭学習を始め、13〜16歳で大学寮に入学します。これは都に設置された官吏養成期間で、生徒は五位以上の貴族の子孫が中心でした。ここで『
さらに教育課程を拡充する格好で、法律を専攻する
紀伝道を志すには、まず大学寮に学び、明経道の基礎教育を受けてから
合格すれば文章博士(当初1名、後に紀伝博士1名設置を経て2名に増員)のもとで『史記』『
紀伝道出身者は地方官や事務官僚として勤務し、必要に応じて朝廷主催の宴に出席して詩を詠み、歴史書や法律書の編纂事業に従事します。さらには
文章生20名のうち、文章博士が成績優秀と認めた者2名が、文章得業生に選ばれます。働く必要のない下級地方官の職を奨学金として与えられ、選抜されてから7年以内に
方略試に合格すれば、紀伝道の専門家としてエリートコースを歩むことができます。その代表的な官職が
話が煩雑になってきましたので、道真を例に取って考えてみましょう。
道真が省試に合格して文章生となったのは18歳の時でした。出題は「3年前に報告・献上された
珍しいことに、道真の方略試受験に関しては、問題・解答・判定結果の3つが揃って現存しているので詳細が判明しますが、問題文の「君の家風は詩を書くことだ」という指摘は、菅原氏の位置づけを端的に表しており、合格とした理由として文章表現を挙げたあたり、後々の道真のスタイルを指し示しているようです。そして後に「講書の後、戯れに諸進士に寄す」(『菅家文草』02:082)で文章博士と
能書家として有名な
しかしその一方で、兄
教育制度についての話はこれくらいにして、「書斎記」に戻ります。
高い進学実績を誇る「廊下」には、学生が殺到し、活況を呈していました。しかし、その中には道真を憤慨させる者も多くいたようです。心中は知れないのに下心あって親しげに振る舞う者、勝手に本を開いたり休憩中に乱入する者、書き間違えた字を削り取るための小刀(道真が使っていたものは道明寺天満宮に残っています)で机を削る者、借りた本に筆で書き込みをする者。
とても11世紀も前の光景とは思えないのですが、あまりに現代的な古代のスケッチは続きます。道真は「書物をカードに抜き書きするのが学問の基本だ」と言い切っているからです。1枚のカードに1項目を記入し、カードをグループ化して情報を整理するKJ法を思い出しますが、確かに、この行為こそが当時の学問のあり方でした。具体的に述べた文章を引いておきます。
当時の学者の職務といふのは、朝廷や貴族のために文章を書いたり、古典の講義をしたり、故事先例を引勘したりすることである。それに又国史や格式などの撰定及び詩文の再録などが考へられるが、多くの場合編纂が主であるために、独創的な性格よりは綜合的な色彩を持つてゐる。そのために従来の文献や資料の書写抄出とその整理執筆が仕事の中心になつて来る。(中略)文章を書く場合にも古典の字句の一部を切り取つて使用するといふ方法が取られた。(大曾根章介「「抄出」の語について」「新訂増補国史大系月報」25、1965年7月)
抄出を重んじる態度は、阿衡の紛議(『菅家文草』05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」を参照)という災厄をもたらし、『
ただ、『日本三代実録』が奏上されたのが道真が大宰府に左遷された直後のため、『類聚国史』の記事のうち、『日本三代実録』の部分は後世の人間による増補ではないか、という見方もあります。一方、『日本三代実録』はほぼ完成しており、道真は編集委員のひとりとして未定稿を入手できたはずだ、という説もあります。最近は増補説がやや優勢のようですね。
道真が抄出の際に利用した「短札」は、
ここまで書いて、さすがに地位も名誉もある人間の言うべきことではないと気がとがめたのか、道真は弁解しながらまとめに入ります。
不安や怒りといった感情を処理するために、その内容を整理して書き出すことは非常に効果的です。道真もこの文章を書いて、いくらかは気が収まったと思いますが、「自分を理解するのはせいぜい3人」とは、ひどく突き放した発言です。道真の友人には、島田忠臣・
15年前、忠臣に宛てた詩に「門下生は多くても、昔と違って気を使います」と書き添え(『菅家文草』02:080「田少府が官を罷めて帰京せるを喜ぶ」)、阿衡の紛議において藤原
この文章には、大曾根章介に「『書斎記』雑考──菅原道真研究序説──」(「共立女子短期大学紀要」6、1962年12月、『王朝漢文学論攷』に再録)という論がありますが、彼は同じ教育者の立場から道真を厳しく批判しています。道真の性格を「孤独で偏狭」「潔癖」「神経質で他人の謬を許容しない狭量な人物」と評し、弟子の挙動に神経をとがらせる姿を、「大勢の門弟を指導教育している学者の取るべき態度ではない」と、ひとりひとり柔軟に対応した孔子と比較して断言しているのです。さすがにそこまで言うつもりはありませんが、紀伝道の嫡流に生まれた矜持と実力から来る自信が、「戦闘的」な態度を取らせ、学界抗争を激化させてしまったことは否めません。
書斎記
左京五条に一軒の家があり、
(その)家の南西の隅に一本の廊下があり、
(その)廊下の南の端に一つの部屋がある。
部屋の広さは、四方わずか一丈(3m)あまり。
(あまりに狭いので、中を)歩く人は、進む際も退く際も脇を歩き、
(中に)入る人は、立つ際も座る際も席を端に寄せる。
これまで、
この部屋から輩出した
計算すると合計で百人近い。
そのため学者は、
この部屋を竜門と名づけた。
また、山陰亭とも称する。
(それは、この部屋が)小さい山の西にあるからだ。
扉の前の側近くに、一本の梅があり、
東に数歩離れると、数本の竹がある。
(梅の)花の(咲く)時期になる度、
(竹林に)程良い風の(吹く)度、
(その香りと音によって)心をゆるやかにのびのびとさせ、
精神を養うことができる。
私が、文章得業生であった当初、
父上がお命じになった、
「この部屋は由緒ある場所だ。
勉学に励む間、そなたの寝起きする部屋とするように。」と。
私は、早速、
書籍を運び入れて据えた。
ああ、
(この)土地は狭苦しく、
(そこに集う)人の心は険しいものだ。
大体友人には、親しい者もいれば疎遠な者もいる。
意気投合する(程の)親しい付き合いではないのに、仲が良さそうな顔をする者もいれば、
どっちつかずではないかと疑わしいのに、親しげに口を利く者もいる。
分からない事を明らかにすると言って、遠慮なく秘蔵の書を開く者もいれば、
挨拶と称し、休憩しているところにわざと押し掛ける者もいる。
また、
刀と筆は本を書写し間違いを削(って訂正す)るための(勉学に欠かせない)道具だ。
(だが)つまらない人物にいたっては、
その(正しい)用途を理解していない。
刀を手にすればすぐ机を削り、
筆をおもちゃにしてたちまち(落書きして)書籍を汚す。
また、
学問の道は、(書物からの)抜粋を中心とし、
抜粋の用途は、草稿(に書き写すの)を基本とする。
私(に)は、
(修正もせずにすらすらと「
そのため、室内のあちこちにある紙片は、
全て抜粋(した際)の草稿である。
だが乱入する人の場合、
その心は想像しがたい。
知恵ある者は、(紙片を)見て巻いて懐に収め(て持ち出し)、
知恵なき者は、(紙片を手に)取って破って捨ててしまう。
これら幾つかの事は、内心ひどく悩んでいることだ。
これ以外のことは、細々としていて(書いても)きりがない。
また、
友人の中に、とてもなくてはならない人がいる。
(彼は)たまたま(私に)用があって、室内にいた。
(だが)乱入する者は、
先客に用事があるのを理解せず、
後から来た身で(ありながら)用もないのにことさらに入る。
また何と悲しむべきことか、また何と悲しむべきことか。
そもそも、
(これらは)ただ学問を究める極致であるだけではなく、
もしくはまた安静を求める心(からの行為)である。
私が、今この文を書いたのは、
どうして絶交のための議論文(を書きたかったから)だろうか、
(そうではなく、)ただ
とりわけ恥ずかしく思うのは、
門外に来客用の建物を作らず、
室内にただ乱入させる制度だけを設けたことだ。
(わざとそうしたのは、)私を理解していない者のためだ。
ただ、私を理解している者は、
三人ぐらいしかいない。
(乱入を禁止すれば、)燕や雀(のようなつまらない人間)が小さな網を避け(て来なくなるだけでは済まず)、
鳳凰(のような優れた人物)が高く飛び去って(我が家を訪れなくなって)しまうのではないかと心配だ。
恐ろしや恐ろしや。
癸丑の年(寛平五年〕七月一日記す。