山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』07:526/『本朝文粋』12:372/『政事要略』巻95

書斎記  書斎記

東京宣風坊有一家、     東京とうけい宣風坊せんぷうばうに一つの家り、
家之坤維有一廊、      家のひつじさるすみに一つの廊有り、
廊之南極有一局。      廊の南のきはみに一つのつぼね有り。
局之開方、纔一丈餘。    局の開けること、方わづかに一丈あまりなり。
投歩者、進退傍行、     歩を投ずるひと、進退するに傍行はうかうし、
容身者、起居側席。     身をるる者、起居するに席をそばだつ。
先是、           これより先、
秀才・進士出自此局者、   秀才しうさい進士しんじ の局より出づる者、
首尾略計近百人。      首尾ほぼかぞふるに百人に近し。
故学者、          ゆゑに学者、
目此局為竜門。       此の局をもくして竜門りようもんす。
又、号山陰亭。       また、山陰亭とぶ。
以在小山之西也。      小山の西にるをもつてなり。
戸前近側、有一株梅、    戸の前の近きかたはらに、一株の梅有り、
東去数歩、有数竿竹。    東に去ること数歩にして、数竿 すかんの竹有り。
毎至花時、         花の時に至るごとに、
毎当風便、         風の便びんに当る毎に、
可以優暢情性、       以て情性せいせい優暢いうちやうすべく、
可以長養精神。       以て精神を長養ちやうやうすべし。

余、為秀才之始、      余、秀才りし始め、
家君下教曰、        家君 かくんかうを下してのたまはく、
「此局名処也。       「此の局は名処なり。
 鑽仰之間、為汝宿廬。」   鑽仰さんかうの間、なんぢ宿廬しゆくろよ。」と。
余、即便、         余、即便すなは ち、
移簾席以整之、       簾席れんせきを移して以て整へ、
運書籍以安之。       書籍を運びて以てやすんぜり。

嗟〓、           嗟〓ああ
地勢狭隘也、        地勢は狭隘けふあいなり、
人情崎嶇也。        人情は崎嶇きくなり。
凡厥朋友、有親有疎。    およの朋友、親しき有りうとき有り。
或無心合之好、顔色如和、  あるいは心合しんがふよしみ無けれども、顔色はやはらげるがごとく、
或有首施之嫌、語言似昵。  或いは首施しうし うたがひ有れども、語言はむつまじきに似たり。
或名撃蒙、妄開秘蔵之書、  或いはもうを撃つと名づけ、みだりに秘蔵の書を開き、
或称取謁、直突休息之座。  或いはえつを取ると称し、ただちに休息の座を突く。
又、            また
刀筆者写書刊謬之具也。   刀筆は書を写しあやまちけづる具なり。
至于烏合之衆、       烏合 うかふの衆に至りては、
不知其物之用。       の物の用を知らず。
操刀則削損几案、      刀をれば則ち几案 きあん削損しやくそんし、
弄筆忽汚穢書籍。      筆をもてあそびてたちまち書籍を汚穢 をわいす。

又、            又、
学問之道、抄出為宗、    学問の道は、抄出をむねし、
抄出之用、稿草為本。    抄出の用は、稿草をもとと為す。
余、非正平之才、      余、正平せいへいが才にあらざれば、
未免停滞之筆。       停滞の筆をまぬかれず。
故、此間在在短札者、    ゆゑに、此間ここりと在る短札は、
惣是抄出之稿草也。     すべこれ抄出の稿草なり。
而〓入之人、        しかるに〓入らんじふの人、
其心難察。         の心察しがたし。
有智者、見之巻以懐之、   智有る者、見て巻き以てふところにし、
無智者、取之破以棄之。   智無き者、取りて破り以て棄つ。
此等数事、内疾之切者也。  此等の数事、内にむことの切なる者なり。
自外之事、米塩無量。    自外の事、米塩無量なり。
又、            又、
朋友之中、頗有要須之人。  朋友のうちに、すこぶ要須 えうすの人有り。
適依有用、入在簾中。    たまたま用有るにりて、入りて簾中れんちうに在り。
〓入者、          〓入らんじふする者、
不審先入之有用、      先入の用有るをつまびらかにせず、
直容後来之不要。      直ちに後来の要あらざるをる。
亦何可悲、亦何可悲。    また何ぞ悲しむべき、亦何ぞ悲しむべき。

夫、            れ、
董公垂帷、         董公とうこうとばりを垂れ、
薛子踏壁。         薛子せつし は壁を踏む。
非止研精之至、       ただ研精の至りのみに非ず、
抑亦安閑之意也。      そもそも亦安閑のこころなり。
余、今作斯文、       余、今の文を作るは、
豈絶交之論乎、       あに絶交の論ならんや、
唯発悶之文也。       ただ発悶の文なるのみ。
殊慙、           ことづらくは、、
〓外不設集賢之堂、     〓外こんぐわい集賢しふけんの堂を設けず、
簾中徒設〓入之制。     簾中に〓入らんじふの制のみを設くることを。
為不知我者也。       我を知らざる者の為なり。
唯、知我者、        唯、我を知る者、
有其人三計人。       其の人三計人みたりばかり有るのみ。
恐避燕雀之小羅       恐るらくは燕雀えんじやく小羅せうら を避けて
而有鳳凰之増逝矣。     鳳凰の増逝すること有らんことを。
悚息悚息。         悚息しようしよく悚息。

 癸丑歳七月一日記。     癸丑歳みずのとうしのとし七月一日記す。

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解説

 寛平5(893)年7月1日、参議・勘解由かげゆ長官・左大弁さだいべん式部大輔しきぶのたいふ春宮亮とうぐうのすけと、いくつもの要職を兼任する49歳の道真が書いたエッセイです。道真の日常生活と性格が窺えるだけに、言及される機会の多い文章です。

 「書斎記」の「記」とは文体の名称で、事実をありのままに書いたものです。さらに自分の意見を述べるものもあり、「書斎記」もその一例です。この文章は、『菅家文草』の他、平安後期に藤原明衡あきひらが編纂した『本朝文粋ほんちょうもんずい』にも収録されており、それによって誤りを正すことができます。異なる箇所を表にして挙げておきましょう(本当は『政事要略せいじようりゃく』にも収録されているのですが、あいにく手元にないので、また今度にでも)。

『菅家文草』『本朝文粋』検討結果
どちらでも可能
無心合之好或無心合之好「有」不要(後述)
之嫌之嫌「首施」とすべき(後述)
弄筆汚穢書籍弄筆汚穢書籍どちらでも可能だが、
「忽」の方がより適切(後述)
此等数事此等数事どちらでも可能
之切之切どちらでも可能
豈絶交之論豈絶交之論どちらでも可能
七月七月日「七月一日」とすべき

 あってもなくても意味が変わらない助詞「」、同じ意味の「」と「かな」などは問題になりませんが、「或無心合之好」および「首之嫌」については、きちんと検討する必要があります。
 まず「或無心合之好」ですが、ここは、
  6或無心合之好、4顔色如和、
  6或有首施之嫌、4語言似昵。
と、6字・4字・6字・4字の隔句対かっくついをなす箇所です。「或」や「之」の位置が同じ、「無」と「有」・「好」と「嫌」・「如」と「似」など、隣り合う言葉に関連を持たせていることに注意して下さい。これが対句の特徴です。ここに「有」を入れると、最初が7字となり、構成が崩れてしまいます。
 また、「しゅだ」と「首」の違いですが、前者はスードラ(カースト制における奴隷階級)のことですので、意味が通りません。それに対し、「首施」は模様眺めでなかなか判断を決めないことを指す言葉で、「言葉だけは仲が良さそうである」という後の文章と合います。
 同じ作品が複数の書物に収録されていると、このように差異を比較し、より適切なものを採用する作業を行います。異なる写本など、同じ書物でも別の本があれば、やはりこの作業が必要になります。どれでも意味が通じる場合はベースとした本の記述に従うことになります。中には全部不適切ということもあり、字形の似た文字を考慮するなどして正解を別途求める必要が出てくることもあります。道真の場合、テキストごとの差異が小さいために語彙レベルで判定できますが、物語などでは表現はもちろん内容まで違ってくるようです。
 本文を訂正する必要があるのは上に挙げた2箇所ですが、もう一つ付け加えるなら、「弄筆汚穢書籍」と「弄筆汚穢書籍」では、どちらでも意味が通じますが、前者の方がよりこなれた表現です。やはりここも対句で、
  操刀則削損几案、
  弄筆汚穢書籍。
とすると、同じ副詞でも意味まで似ている「則」と「忽」が対になるからです。

 では、内容に入ります。
 この文章により、当時彼が宣風坊こと左京五条に居を構えていたことが明らかになりますが、そこから、左京五条 → 家 → 南西隅にある廊下 → 南端の一室と、大から小へのクローズアップによって書斎にたどり着きます。これは、テレビカメラで俯瞰するのにも似た、視覚的な描き方です。
 廊下の南端にある部屋は各辺3mほどしかない小さなもので、面積で換算しても6帖間より狭い空間でした。そこに棚やひつ(蓋のついた大形の箱)を置き、巻子本かんすぼんを収納しますから、部屋の中は余計に狭くなります。結果、家具の間を歩いたり、机を動かさないと立てないという状態になってしまいました。
 近くには一本の梅の木とささやかな竹林があり、部屋の中から花の香りと竹が風にそよぐ音を楽しむことができました。東には小さな築山つきやまがあったため、「山陰亭」とも呼ばれていました。梅と菊と竹を道真は好みましたが(菊については『菅家文草』04:303「諸の小郎と同じく、客中の九日、菊に対ひて懐ひを書す」を参照)、この3つの植物には共通点がありました。貞操、です。すべての草木に先駆けて咲く花の兄、一年で最後に開く花の弟、そして此君このきみ。寒さに耐える花と冬でも青いままの竹は、常緑樹の松ともども、苦難に遭っても心変わりしないものの象徴とされ、理想的な忠臣の姿と重ねられていました。それゆえ中国の文人達に愛され、道真も彼らに倣って自宅の庭に植えたのです。
 古くなった廊下を10年前に新築した際、その壁に道真が書き付けた詩(『菅家文草』02:114「小廊新たに成り、聊か以て壁に題す」)を読むと、建物の位置関係は「書斎記」の内容とよく似ています。「書斎記」に登場する一室は学生の頃から使ってきた部屋ですので、同じ建物と考えられますが、廊下からは外の様子が見聞きできたそうですから、書斎も廊下も、敷地の西端にあったようです。

 この書斎は、道真が父是善から譲り受けたものでした。それは文章得業生もんじょうとくごうしょうであった当初と言いますから、26年前の貞観9(867)年、道真23歳の時です。家業を継ぐことを心に決めた(『菅家文草』02:087「博士難」)のも、この時ではないでしょうか。さっそく道真は自分の書籍を運び込み、勉学に励みました。
 部屋を譲るに際し、是善が「由緒ある部屋だから」と言ったのには理由がありました。道真が「この部屋から輩出した文章得業生・文章生もんじょうしょうは、百人近い」と豪語するように、紀伝道を志す学生がここに集まっていたからです。書斎から北に延びる廊下がその教室でした。
 あくまでも移動用の経路に過ぎない現在の廊下とは違い、寝殿造りの廊下は幅も広く、宴会を開くことも可能でした。道真の祖父清公きよきみ(「きよとも」「きよただ」などの訓みもありますが、どれが正しいのかは不明です)(770〜842)は学界の重鎮で、大学の外でも彼の授業を受けたいと願う生徒達のために、自宅を開放し、書斎に続く廊下を教育の場としました。この私塾の名称について、『北野天神御伝』には「菅家廊下」とありますが、道真もまた平安中期の源相規みなもとのすけのり大江匡衡おおえのまさひら・菅原清房も単に「廊下」と呼んでおり(『菅家文草』01:019「廊下に侍り、吟詠して日を送る」・『本朝文粋』11:336「初冬、菅丞相が廟(現在の太宰府天満宮)に陪り、同じく『籬菊に残花有り』といふことを賦す」詩序に「相規、廊下の旧生、(大宰府)管内の愚吏なり」・『江吏部集』02:067「愚息挙周たかちかが学問料(奨学金)を賜ふを喜び、聊か所懐を写し、廊下の諸賢に寄せ呈る」、『願文集』所載「永正五年北野聖廟法華講詩」に「廊下独り慙づ末塵為ることを」)、正式な名称はなく、「廊下」という通称で呼ばれていたようです。また、『中右記部類紙背漢詩集ちゅうゆうきぶるいしはいかんししゅう』でも、「廊下」と呼ぶ例があるそうです(桃裕行「道真と仮託の書──『菅家遺誠』と『紅梅殿図』──」「人物叢書」100、1962年11月)。

 道真が生まれたのは是善が文章博士もんじょうはかせになった頃ですが、当時、学者の間では弟子を巻き込んでの中傷合戦が絶えなかったことは、地方で生まれながら参議にまで登った孤高の学者、春澄善縄はるずみのよしただ(797〜870)の薨伝(『日本三代実録』貞観12年2月19日条)に見えるところです。学者同士の反目を身をもって経験したからこそ、息子が文章博士となった時、是善は単純に喜べず、身を慎しむよう忠告せざるを得ませんでした(『菅家文草』02:087「博士難」)。
 学者の元に学問を志す人々が集まり、私塾を形成していたことは菅原氏に限ったことではありません。ただ、菅原氏の場合、清公・是善・道真と3代に渉って私塾を運営しており、規模と実績は他の塾とは比べ物になりませんでした。そこで他の学者達は急流の滝を登り切った魚だけが竜になれるという言い伝えから生まれた登竜門の故事(『後漢書』李庸伝)に倣い、「竜門」と呼んだのです。道真が学界抗争の渦中に身を置き、何度も誹謗中傷を受け(『菅家文草』02:098「思ふ所有り」・02:118「詩情怨」)、逆に他の学者を声高に批判していた(02:094「詩を吟ずることを勧め、紀秀才に寄す」)背景には、一大学閥の存在がありました。

 さてここで、平安前期の教育制度、特に道真が学んだ紀伝道きでんどうという学科について見ておきましょう。
 貴族の子弟は早ければ4・5歳、遅くとも7歳には家庭学習を始め、13〜16歳で大学寮に入学します。これは都に設置された官吏養成期間で、生徒は五位以上の貴族の子孫が中心でした。ここで『礼記らいき 』『春秋左氏伝』『詩経』『易経』『書経』『孝経』『論語』といった儒学のテキストを学びます。まず音読の授業を受け、次に内容を学びます。講義開始から10日目にテキスト本文と内容についての試験を受け、1日休暇が与えられます。授業はこの繰り返しで進められ、年度末にも試験が行われます。こうして何年か学んだ後、役人として出仕します。これが本科である明経道みょうぎょうどうで、その他、税金の計算に数学の知識が必要なため、専攻科として算道が設置されていました。大学寮は全寮制ですが、付近には、藤原氏の勧学院かんがくいんのように、氏族単位で設立・運営される寄宿舎もあり、その氏族に属する者はそちらで寝起きしていたようです。
 さらに教育課程を拡充する格好で、法律を専攻する明法道みょうぼうどうと中国文学・歴史学を専攻する紀伝道が設置されました。この「〜道」という名称は設立当初からあるものではありませんし、紀伝道に至っては学科名と教官名・生徒名が齟齬するという奇妙な現象をきたしており、便宜上「文章道もんじょうどう」と呼ぶ人もいます。紀伝道が設置されたのは奈良時代前期の神亀5(728)年ですが、平安時代初期には人気学科となり、選抜試験が行われるようになりました。
 紀伝道を志すには、まず大学寮に学び、明経道の基礎教育を受けてから寮試りょうし省試しょうしと、2度の選抜試験に合格しなければなりません。寮試を経ずに省試を受ける方法もありますが、特例ですのでここでは割愛します。明経道の定員は400名ですが、紀伝道を専攻する文章生の定員は設立当初から20名のままで、しかも省試は春秋2回実施されるはずが、欠員を補充する形でしか募集を行っていなかったため、非常に狭き門でした。40代でやっと合格したり、合格できぬまま鬼籍に入ってしまうことさえあったのです。

 合格すれば文章博士(当初1名、後に紀伝博士1名設置を経て2名に増員)のもとで『史記』『漢書かんじょ』『後漢書ごかんじょ』といった中国の歴史書や『文選もんぜん』など中国の文学書を学びます。朝廷によって歴史書や勅撰漢詩文集が編纂され、宴の席では漢詩が詠まれた平安時代前期において、紀伝道を学んだ人間は漢詩文製作に習熟した人物として重宝がられました。天皇はもとより、高位高官でも教養として漢詩文を嗜んでいて当然という時代でした。
 紀伝道出身者は地方官や事務官僚として勤務し、必要に応じて朝廷主催の宴に出席して詩を詠み、歴史書や法律書の編纂事業に従事します。さらには南淵弘貞みなみぶちのひろさだ(777〜833)・滋野貞主しげののさだぬし(785〜852)のように公卿に列した者もおり、紀伝道は中下級貴族にとっての出世コースだったのです。

 文章生20名のうち、文章博士が成績優秀と認めた者2名が、文章得業生に選ばれます。働く必要のない下級地方官の職を奨学金として与えられ、選抜されてから7年以内に方略試ほうりゃくしを受験します。これは律令制における最難関の論文試験で、古典に対する深い理解が問われました。省試の場合、詩・さんといった比較的短い韻文を、字数・韻字・題などを指定して作らせる問題が1問出されましたが(具体例は、大曾根章介「「放島試」考──官韻について──」「国語と国文学」56-12、1979年12月、『大曾根章介 日本漢文学論集』第1巻に再録、を御覧下さい)、方略試は政治哲学・老荘思想・中国史などから文章題2問が出題され、長文の解答を書くことになります。文章表現・論理性の両面から審査され、5段階評価のうち、4段階以上で合格とされました。
 方略試に合格すれば、紀伝道の専門家としてエリートコースを歩むことができます。その代表的な官職が大学頭だいがくのかみ(大学寮の長官)や文章博士であり、文官の人事を司り、大学寮を監督する式部省しきぶしょうすけ(次官)でした。省試の出題者も、輔が勤める決まりでした。氏族別の系図『尊卑分脈そんぴぶんみゃく』には、時折名前の上に「策」の字がありますが、これはその人物が方略試に合格していることを示すものです。

 話が煩雑になってきましたので、道真を例に取って考えてみましょう。
 道真が省試に合格して文章生となったのは18歳の時でした。出題は「3年前に報告・献上された祥瑞しょうずい6つについて、それぞれ賛を作れ」というもの(『菅家文草』07:522)。5年後に23歳で文章得業生に選ばれ、3年後の26歳で方略試を受験し、合格と判定されます。この時は「中国の氏族について、謝氏と余氏における違いを中心に述べよ」「地震について、中国哲学と仏教の経典によって述べよ」という問題が出され、道真はそれぞれ1000字程度の漢文で解答を書きました(『都氏文集』05・『菅家文草』08:566・08:567参照)。
 珍しいことに、道真の方略試受験に関しては、問題・解答・判定結果の3つが揃って現存しているので詳細が判明しますが、問題文の「君の家風は詩を書くことだ」という指摘は、菅原氏の位置づけを端的に表しており、合格とした理由として文章表現を挙げたあたり、後々の道真のスタイルを指し示しているようです。そして後に「講書の後、戯れに諸進士に寄す」(『菅家文草』02:082)で文章博士と式部少輔しきぶのしょう(式部省の次官補佐)を兼任していることを生徒相手に自慢したのも、両者が紀伝道の専門職であるという前提に立ってのことでした。

 能書家として有名な嵯峨さが天皇は積極的に漢詩文を作った人物でもありますが、遣唐使の一員として長安(唐の首都)に赴いた経験を持つ清公を文化顧問として重用し、弘仁9(818)年、彼を中心に儀式や服装から門の名称まで中国風に改めさせました。さらに弘仁12(821)年、文章博士に相当する位を正七位下から従五位下に引き上げ、正六位下相当の大学博士(明経道の教官)よりも上位としました(『類聚三代格』巻5)。従五位下以上が貴族ですから、文章博士は大学頭(従五位上相当)に次ぐ貴族の官職となったのです。天皇の周囲を見回せば、良岑安世よしみねのやすよ(嵯峨天皇の異母兄)・藤原冬嗣ふゆつぐ(基経の祖父)や小野岑守みねもりたかむらの父)といった、漢詩文に明るい高官が揃っています。
 しかしその一方で、兄平城へいぜい天皇の時に貴族の子弟に大学寮への入学を義務付けようとしたのを、現状を鑑みて撤回せざるを得ませんでした(『日本後紀』弘仁3年5月21日条)。律令制には貴族を再生産する「蔭位おんい 」という制度があり、父が五位以上、あるいは祖父が三位以上であれば、21歳以上で位が与えられ(『選叙令義解』五位以上子条)、官職に就くことが可能だったからです。才用主義と血縁重視が共存する中では、上流貴族は蔭位によって将来を保証され、中下級貴族は紀伝道によって立身を志すという、内部分裂が最初から用意されていたのは当然でした。

 教育制度についての話はこれくらいにして、「書斎記」に戻ります。
 高い進学実績を誇る「廊下」には、学生が殺到し、活況を呈していました。しかし、その中には道真を憤慨させる者も多くいたようです。心中は知れないのに下心あって親しげに振る舞う者、勝手に本を開いたり休憩中に乱入する者、書き間違えた字を削り取るための小刀(道真が使っていたものは道明寺天満宮に残っています)で机を削る者、借りた本に筆で書き込みをする者。
 とても11世紀も前の光景とは思えないのですが、あまりに現代的な古代のスケッチは続きます。道真は「書物をカードに抜き書きするのが学問の基本だ」と言い切っているからです。1枚のカードに1項目を記入し、カードをグループ化して情報を整理するKJ法を思い出しますが、確かに、この行為こそが当時の学問のあり方でした。具体的に述べた文章を引いておきます。

当時の学者の職務といふのは、朝廷や貴族のために文章を書いたり、古典の講義をしたり、故事先例を引勘したりすることである。それに又国史や格式などの撰定及び詩文の再録などが考へられるが、多くの場合編纂が主であるために、独創的な性格よりは綜合的な色彩を持つてゐる。そのために従来の文献や資料の書写抄出とその整理執筆が仕事の中心になつて来る。(中略)文章を書く場合にも古典の字句の一部を切り取つて使用するといふ方法が取られた。
(大曾根章介「「抄出」の語について」「新訂増補国史大系月報」25、1965年7月)

 抄出を重んじる態度は、阿衡の紛議(『菅家文草』05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」を参照)という災厄をもたらし、『類聚国史るいじゅうこくし』という果実を実らせました。『類聚国史』は、道真が『日本書紀』から『日本三代実録』に至る官撰の歴史書(6つまとめて六国史りっこくしと呼ばれます)を内容別に分類した書物で、役人が先例を調べるために作られましたが、直接該当する記事を読むことができるので、六国史の語句索引がある現在でも非常に便利な存在です。しかも原文をそのまま収録しているため、六国史の逸文を補うことが可能です。六国史のうち、『日本後紀にほんこうき 』は全体の4分の1しか現存せず、『日本三代実録』も書写の過程で記事が随分省略されてしまい(是善の薨伝も)、失われた部分がかなりあるのですが、『類聚国史』によって本文を復元できるのです。惜しむらくは全200巻のうち62巻しか残っていないことで、代わりに『日本紀略にほんきりゃく』をひもとくと、「略」だけに、煩雑な記事は「云々」のひとことで切り捨てられており、味気ない思いをすることがあります。
 ただ、『日本三代実録』が奏上されたのが道真が大宰府に左遷された直後のため、『類聚国史』の記事のうち、『日本三代実録』の部分は後世の人間による増補ではないか、という見方もあります。一方、『日本三代実録』はほぼ完成しており、道真は編集委員のひとりとして未定稿を入手できたはずだ、という説もあります。最近は増補説がやや優勢のようですね。

 道真が抄出の際に利用した「短札」は、木簡もっかんの類ではなく、どうやら紙製のものだったようです。表面を削れば簡単に再利用できる木簡に比べ、紙は貴重品ですし、うかつに置くと風に飛ばされるだけに意外ですが、書斎に乱入した人間が巻いたり破ったりしているので、紙と判断するしかないのです。せっかく書いた紙片を勝手に触られることに憤り、悩みの種は尽きないと言って筆を止めるそぶりを見せますが、さらに不満を綴ります。大切な友人が書斎を訪れ、話をしているところに、お構いなしに乱入する無神経な人間には我慢がならない、と言うのです。

 ここまで書いて、さすがに地位も名誉もある人間の言うべきことではないと気がとがめたのか、道真は弁解しながらまとめに入ります。
 とばりを下ろして講義し、3年間庭を見なかった前漢の董仲舒とうちゅうじょ、書斎で寝そべって文章を考え、外に人がいるだけで怒った隋の薛道衡せつどうこうの2人を挙げ、書斎は学問に専心する部屋であると同時に、心安らぐ場所でもあると言います。そしてこの文章は絶交を宣言するものではなく、単なる気晴らしに過ぎないと弁明し、外に客間を設けなかったことを後悔します。しかし書斎への立ち入りを全面的に禁止すれば、立派な人物まで来なくなりそうで、心配でならない。ここまで書いて、ようやく道真は筆を置きました。

 不安や怒りといった感情を処理するために、その内容を整理して書き出すことは非常に効果的です。道真もこの文章を書いて、いくらかは気が収まったと思いますが、「自分を理解するのはせいぜい3人」とは、ひどく突き放した発言です。道真の友人には、島田忠臣・菅野惟肖すがののこれすえ安倍興行あべのおきゆき・紀長谷雄・巨勢文雄こせのふみお などがいますが、物故者の忠臣は別としても、心からの親友ばかりではない、とでも言いたげな口ぶりです。
 15年前、忠臣に宛てた詩に「門下生は多くても、昔と違って気を使います」と書き添え(『菅家文草』02:080「田少府が官を罷めて帰京せるを喜ぶ」)、阿衡の紛議において藤原佐世すけよ が兄弟弟子の橘広相たちばなのひろみを攻撃したように、同門でも一枚岩ではありませんでした。そこに自己に厳しく他人にも厳しい態度で望めば、余計に人心が離れること必定です。

 この文章には、大曾根章介に「『書斎記』雑考──菅原道真研究序説──」(「共立女子短期大学紀要」6、1962年12月、『王朝漢文学論攷』に再録)という論がありますが、彼は同じ教育者の立場から道真を厳しく批判しています。道真の性格を「孤独で偏狭」「潔癖」「神経質で他人の謬を許容しない狭量な人物」と評し、弟子の挙動に神経をとがらせる姿を、「大勢の門弟を指導教育している学者の取るべき態度ではない」と、ひとりひとり柔軟に対応した孔子と比較して断言しているのです。さすがにそこまで言うつもりはありませんが、紀伝道の嫡流に生まれた矜持と実力から来る自信が、「戦闘的」な態度を取らせ、学界抗争を激化させてしまったことは否めません。

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口語訳

書斎記

左京五条に一軒の家があり、
(その)家の南西の隅に一本の廊下があり、
(その)廊下の南の端に一つの部屋がある。
部屋の広さは、四方わずか一丈(3m)あまり。
(あまりに狭いので、中を)歩く人は、進む際も退く際も脇を歩き、
(中に)入る人は、立つ際も座る際も席を端に寄せる。
これまで、
この部屋から輩出した文章得業生もんじょうとくごうしょう文章生もんじょうしょうは、
計算すると合計で百人近い。
そのため学者は、
この部屋を竜門と名づけた。
また、山陰亭とも称する。
(それは、この部屋が)小さい山の西にあるからだ。
扉の前の側近くに、一本の梅があり、
東に数歩離れると、数本の竹がある。
(梅の)花の(咲く)時期になる度、
(竹林に)程良い風の(吹く)度、
(その香りと音によって)心をゆるやかにのびのびとさせ、
精神を養うことができる。

私が、文章得業生であった当初、
父上がお命じになった、
「この部屋は由緒ある場所だ。
 勉学に励む間、そなたの寝起きする部屋とするように。」と。
私は、早速、
すだれと席を移して(部屋の中を)整え、
書籍を運び入れて据えた。

ああ、
(この)土地は狭苦しく、
(そこに集う)人の心は険しいものだ。
大体友人には、親しい者もいれば疎遠な者もいる。
意気投合する(程の)親しい付き合いではないのに、仲が良さそうな顔をする者もいれば、
どっちつかずではないかと疑わしいのに、親しげに口を利く者もいる。
分からない事を明らかにすると言って、遠慮なく秘蔵の書を開く者もいれば、
挨拶と称し、休憩しているところにわざと押し掛ける者もいる。
また、
刀と筆は本を書写し間違いを削(って訂正す)るための(勉学に欠かせない)道具だ。
(だが)つまらない人物にいたっては、
その(正しい)用途を理解していない。
刀を手にすればすぐ机を削り、
筆をおもちゃにしてたちまち(落書きして)書籍を汚す。

また、
学問の道は、(書物からの)抜粋を中心とし、
抜粋の用途は、草稿(に書き写すの)を基本とする。
私(に)は、禰衡でいこうの(ような)文才がないので、
(修正もせずにすらすらと「鸚鵡おうむ の賦」を書き上げた彼とは違い、)筆が滞ることを避けられない。
そのため、室内のあちこちにある紙片は、
全て抜粋(した際)の草稿である。
だが乱入する人の場合、
その心は想像しがたい。
知恵ある者は、(紙片を)見て巻いて懐に収め(て持ち出し)、
知恵なき者は、(紙片を手に)取って破って捨ててしまう。
これら幾つかの事は、内心ひどく悩んでいることだ。
これ以外のことは、細々としていて(書いても)きりがない。
また、
友人の中に、とてもなくてはならない人がいる。
(彼は)たまたま(私に)用があって、室内にいた。
(だが)乱入する者は、
先客に用事があるのを理解せず、
後から来た身で(ありながら)用もないのにことさらに入る。
また何と悲しむべきことか、また何と悲しむべきことか。

そもそも、
董仲舒とうちゅうじょは帷を下ろし(て庭も見ずに講義に努め)、
薛道衡せつどうこうは(文章の構想を練る際、人気のない書斎で横になって)壁を踏んだ。
(これらは)ただ学問を究める極致であるだけではなく、
もしくはまた安静を求める心(からの行為)である。
私が、今この文を書いたのは、
どうして絶交のための議論文(を書きたかったから)だろうか、
(そうではなく、)ただ憤懣ふんまんを発散するための文(を書きたかったから)である。
とりわけ恥ずかしく思うのは、
門外に来客用の建物を作らず、
室内にただ乱入させる制度だけを設けたことだ。
(わざとそうしたのは、)私を理解していない者のためだ。
ただ、私を理解している者は、
三人ぐらいしかいない。
(乱入を禁止すれば、)燕や雀(のようなつまらない人間)が小さな網を避け(て来なくなるだけでは済まず)、
鳳凰(のような優れた人物)が高く飛び去って(我が家を訪れなくなって)しまうのではないかと心配だ。
恐ろしや恐ろしや。

 癸丑の年(寛平五年〕七月一日記す。

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