所在地:京都市南区吉祥院政所町
交通:京都市バス・吉祥院天満宮前バス停下車
(傾向)歴史はあるのに伝承寄りなのが惜しい。
(対策)遺跡は遺跡、歴史は歴史。
四条河原町や京都駅からバスが出ていますが、1時間に1本あるかないかという路線ですから、西大路九条のバス停かJRの西大路駅から西大路通を南下するのが正攻法です。しばらくすると道が二つに分かれますので、右の道を選び、橋を渡ります。川沿いに公園がありますが、そのすぐ先が入口です。
平安京の南西の隅から少し離れた場所にあります。元々は吉祥院という菅原氏の氏寺でした。
延暦23(804)年、道真の祖父菅原清公が遣唐使として唐に渡った際、海上で暴風雨に遭遇したが、
今でこそマイナーの部類に入りますが、平安中期には貴族が天神信仰の一環として詩文の会を開いていたようで、漢詩文集『
吉祥院が吉祥院たりえる吉祥天女社は別として、境内には伝承の産物が色々と揃っています。
まず、道真のへその緒を埋めたとされる
そして
他に
(傾向)念仏踊りとは別物でした。
(対策)帰り支度と携帯用の椅子。
ある日、ふと気が付けば、今度の25日は見事なまでに週末。据え膳食わぬは状態で、まさかおとなしく家で過ごす訳には行くまい。けど、北野天満宮にだけ行くのも効率悪いし、京都市中のめぼしい天神社は一通り足を運んだし……。ああ、何たる因果、とか何とか思いながら、よくよく考えてみれば、この日は吉祥院天満宮の六斎念仏の日でもありました。よし、これで交通費の元は取れる!
良く分からない口実を背に、京都市バスの1日乗車券を金券ショップで購入し、スーツで気合いを入れ、天満宮のはしごでバスを存分に乗り倒し、北野、そして吉祥院へ。
到着したのは夕方でしたが、開始までまだまだ時間があるようです。出店を一通りのぞいてから近所の大型スーパーに行き、腹ごしらえを済ませます。そして19時前に境内に戻り、屋外に設けられた舞台の近くに陣取ります。
吉祥院六斎念仏が上演されるのは、4月25日と8月25日の年2回。国の重要無形民俗文化財に指定されている芸能で、端的に言ってしまえば、「太鼓パフォーマンス、寸劇付き」。祭の名前そのものは滝宮天満宮の念仏踊りと紛らわしいのですが、全然違うものですよ。
まずは吉祥院音頭。婦人会が主催するただの盆踊りかと思いきや、思いっきりオリジナルの歌詞に合わせて作り物の梅ケ枝を持って踊ります。天神さんがどうのこうのという歌詞はかなり強烈です(笑)。
次に太鼓の乱れ打ち。台の上に固定された複数個の小さな太鼓を、ハッピを来た子供、そして浴衣姿の成人男性が、一人、時には二人で、笛や鉦にあわせて細いバチで休むことなく叩きます。次の人に交代する時も、切れ目なくスムーズにつないでゆく様はお見事。興が乗ってくるとジャンプしながら叩くことも。さらに、大人はこの太鼓を手に持ち、踊り歩きつつ叩きます。
おかめとひょっとこが周囲を見回しながら一周する寸劇を間に挟み、土蜘蛛が演じられます。
緑の頭に紅い体の獅子が登場し、逆立ちしたり左右に転がったり。囃子にあわせて耳を交互に上げ下げするしぐさに、観客から笑いが起きます。この獅子、二人掛かりで演じられるだけに、布の下は組立体操の世界です。
そこに金襴の着物を纏い、もう一枚の着物をかぶった長髪の人物が登場し、獅子に向かって蜘蛛の糸を投げ付け、獅子が絡み取られて幕引き。
舞台で投げられた蜘蛛の糸、正体はクラッカーに使う紙テープのようなものですが、観客がよってたかってつかもうとしていたのには何か深い意味があるのでしょうか? 筆者も取りあえず握りしめてみましたが、やはりごく普通の紙テープでした(笑)。
21時過ぎに上演が終了し、あとは大急ぎでバス停に戻って最終便に乗ります。2時間立ちっぱなしはさすがに疲れますね。開始間際に行っても前の方で見られますから、折り畳みのイスを用意して少し早めに入り、座って見学するのが正攻法かも知れません。
以前にも一度だけ見たことがありますが、その時は地震で電車が止まり、しばらく足止めを食ったあげく、日付変更線を踏み越え、文字通り「午前様」の帰宅になってしまいました。どんなに遅くても23時台には帰るようにしていましたから、初めての体験だったんですよね〜。今でも良く覚えています。
(傾向)灯台もと暗し。
(対策)行ったら自慢できますよ。……って、誰に?
清公や是善の墓など、関連史跡が近辺にゴロゴロあるらしい、という話は当初から耳にしていたものの、詳細が今一つ良く分からないので、長い間そのままにしていました。が、最近、読者の方からリクエストを頂いたので、調査に乗り出しました。
まずは情報収集。Webでも書籍でも大した情報が得られないので、餅は餅屋とばかりに某天神社のスタッフに聞いたところ、境内の話ばかりで見事に噛み合わない。天満宮の「境内」じゃなくて「周辺」なんですけど、と念押しすると、周辺に史跡があるという話自体が初耳だった御様子。……餅屋じゃなくて紺屋だったらしい(笑)。
質問した手前、自分でも調べたのですが、史跡の有無と町名までは判明したものの、具体的な場所までは確定できず。それでもひとまず把握できた情報を先方に流すと、なぜだか当のスタッフ本人が入洛ついでに現地に寄るという展開に。情報を提供する側と利用する側が逆な気もしますけど、存在しない史跡を求めて住宅街をさまよう徒労を味わわなくて済むのは、もっけの幸い。
かくして所在地を確認した上で、ようやく現地調査に踏み出します。
天満宮の南側の出口(拝殿向かって左側)を出て、右方向に歩きます。すると前方に公園が見えてきますので、1つ手前の十字路で右折します。すると左側にあるのが三善院。フルネームは「
それは「清行は道真に師事していたので吉祥院の本邸を訪れることも多かった。延喜9(909)年、清行は浄蔵とともに、吉祥天女院堂の前に寺院を建立し、道真が自ら刻んだ十一面観音像を安置した」というもの。
清行は
天神縁起にみえる浄蔵の加持祈祷の話は、「延喜9年4月4日、浄蔵が時平の邸で祈祷していると、時平の両耳から2匹の青い竜(=道真の怨霊)が頭を出し、見舞いに訪れた清行に向かって『帝釈天と梵天に復讐の許可を得たのに、貴殿の息子が私を調伏しようとしている、すぐ制止せよ!』と叫んだので、清行は慌てて祈祷を中止させた。すると時平はすぐ亡くなってしまった」というもので、祈祷に負けるから即時中止を求めたのであって、天神も仏法に制圧される存在だというのが話の主題です。
それが時代が下るにつれ、次第に清行父子の立場は軽くなり、浄蔵ほどの法力の持ち主ですら怨霊に負けたことに重心が置かれるようになります。天神信仰の中核を担ったのが天台僧であるのに対し、浄蔵が真言宗系だったことが影響しているようなのですが、天神信仰の成立期は色々と複雑にして難解で、一筋縄ではいきません。
今来た道を戻り、さらに直進すると、病院の前に出ます。左折してしばらく歩くと公園がありますが、その先にある石仏の雛壇が
漢詩文の場合、位階官職のみならず名前まで中国風に表記することが良くありますが、彼女の父親である島田
要するに、父にまつわる勘違いをひきずったのが件の誤植なんですが、天神社でこういう初歩的なミスを見つけると……、少なからず悲しくなります。
公園の隅まで戻り、十字路を左折して南下。なぜか集合住宅の中に交番がありますが、その先で再び左折します。すると吉祥院高畑町バス停に着きます。ここで一度バスの時刻をチェック。その先にはまた公園がありますので、公園に沿ってぐるっと反時計回りに回ると、左手にあるのが香泉寺です。
ここには菅原
「あのー、ここに菅原是善の墓があると聞いたのですが……」
「え? お父さんのお墓ですよ?」
数秒間、脳内が混線。お父さん? ってことは清公? いやそんな筈はない。その辺はちゃんと頭に叩き込んだし……。
要するに「(道真の)お父さん」の謂らしいのですが、道真のミの字も出していないのに、何でまたそんな展開に。そもそもここは京都市中。道真の墓が太宰府にあることぐらい、誰でも知っている、はず。
「えーと、どれでしたっけ? これかな? ……あ、違いますね。こちらです」と、餅屋に藍染にされそうになりながら案内された先は、玉砂利を敷き詰めた区画に立つ石製の平たい卒塔婆。墳墓などではなく、あくまで平らな台の上でした。建立時期を知りたくて裏側を覗いても、文字を刻んだ形跡とてナシ。
撮影の後、合掌して礼拝。法事の帰り道だったので数珠こそ持ち合わせていましたが、こんな所まで墓を探しに来ること自体が怪しげな行動なのに、数珠まで出したら余計怪しまれると思い、そこは自粛。「墓を見せて欲しいと、最近人が訪れませんでしたか?」なんて涼しい顔で尋ねる読経、もとい度胸はありません。
しかしここまで墓地が平らだと、本来墓があった場所から移転したのではないか、そんな気もしますね。
礼拝を済ませてそそくさと退出し、正面の道をそのまま南下します。創価学会の建物の前で左折し、壁に沿ってしばらく歩き、角を右に曲がると、小学校の向かい側に小さな石柱とおそろしく細い道があります。
すれ違うこともできない道の先には、近代建築の谷間にうずもれるようにして塚がありました。表面は大量の雑草に覆われ、頂には「菅原清公卿御墳墓」と刻まれた石柱が立っています。これが菅原
全体を写真に収めようとしても到底距離が取れず、それでも下がると墳が建物の陰になってしまいます。ふと後ろを振り向くと、隣の会社から出てきたオジさんが、自転車に乗ろうとする手を止めて、こちらに視線を向けています。そんな不審気な目で見られたら、「すいません、敷地内から写真撮っても構いませんか?」と許可を求めることもできないではないですか、ああ(嘆息)。
今回の仏教チックな調査旅行は、これにて完結。あともう一つ、道真が書道に使ったという井戸の跡もありますが、なにしろ跡ですし、距離もありますので、足を延ばすのは止めて、素直にバスに乗りました。事前に「車でないと厳しい」と聞いていましたが、車ほどではないにしろ、自転車を持ち込まないと回れないというのが本当のところです。
昔は菅原